HOLLOW SUNS

Prologue

僕がウィルと出会ったのは2018年。彼がフィアンセのクリスティーナと日本に休暇を過ごしにきていた時だった。
友人から「ウィル・イップと渋谷の寿司屋でランチするから来ない?」という、いきなりの誘いだった。それが彼との初対面である。その時は「おお、本物だ。YouTubeでみたぞ。」というのが第一印象。彼とはなぜか気が合った。共通の友人も何人かいたのもその要因かもしれない。彼の約2週間の滞在中、かなりの時間をともに過ごした。

彼は「俺のスタジオでレコーディングすればいいよ!」と滞在中に何度も言ってくれた。語弊を恐れず言わせてもらうと、アメリカ人のこの手の約束は半分以上守られないのが現実だ。僕自身、何度か痛い目をみた経験がある。だからその時は半信半疑だった。でも彼は帰国後に本当にレコーディングの連絡をくれたのだ。生涯の夢が目の前に突然現れて、自分の身に起きている事とは思えなかった。

当時のメンバーと幾度となくミーティングをして、2020年12月〜2021年1月の約1ヶ月間を使い、レコーディングをすることを決めた。そして、2019年末からソングライティングを開始し、1年掛の計画が幕を開けた。

僕はいつも自宅や、事務所でLogicを使ってデモ音源を作る。今回はどうしても今まで以上の作品にしたいと言う想いもあり、デモ制作は原宿にあるAttic Studioの防音スペースを借りて行った。
それまでのデモ制作は環境の問題もあり、どうしてもオケができてから歌を作ると言う工程を踏まざるを得なかったが、防音室を使うことで、その場で思いついた仮歌を大声で歌って録ることができた。メロディを早い段階でのせることで、余計な楽器のフレーズを減らせたことが大きな変化だったと思う。
週に1回〜2回はスタジオに通い、長ければ5〜6時間はスタジオにいたと思う。何も思いつかなくて帰った日もあったし、1日に2〜3曲思いつく日もあった。4〜5ヶ月くらいかけて楽曲の断片を17〜18曲は作ったと思う。
「よし!あとはこの曲達を仕上げていこう!」そんな勢いの最中、世界中でパンデミックが起こってしまう。

一時は渡米すら危ぶまれた状態だったが、ピンチはチャンス。折れかけた心をなんとか保ち、パンデミックで外出できない時間を利用して、最終的に13曲のデモを2020年の夏に完成させた。そして今度はそこから2〜3ヶ月かけて歌詞をKensuke Yamamotoと書き、書き上がった順にデモにレコーディングしてゆく。
彼とは長い付き合いで、Hollow Sunsの歌詞は全て彼とともに作詞してきた。彼も僕の想いを汲んで今まで以上の気合いで望んでくれたと思う。比喩表現を増やすために、曲がイメージする風景の写真を二人で見て、様々な比喩のアイデアを出しあったり、今までにないアプローチも2人で試みた。

そして、全てが出来上がったのは10月頃だったと思う。
そのデモをウィルに送って、航空チケットを抑え、渡米することがだんだん現実味を帯びてきた。ウィルとFaceTimeでも話したりもして、刻々と旅立ちの日が近づいてくる。

コロナの期間でメンバーが脱退したこと、ギターのアユムがパンデミックの煽りでライブハウス勤務の仕事から離れらないことなどもあって、今回のレコーディングは現地でドラマーを手配し、その他のパートは全て僕がこなす事となった。デモ制作では全ての楽器は僕が担当しているから技術的な問題はない。ただメンバーと渡米したいという想いはずっとあった。次はきっとバンドで。
代わりと言ってはなんだが、妻のあいが通訳として一緒に付いてきてくれた。彼女はアーティストや、俳優の現場通訳が本業で、スタジオワークにも慣れている。彼女の助けがなかったらこのアルバムは完成しなかっただろう。
現地のドラマーにはウィル自身が名乗りを上げてくれたが、彼は手に持病があり秋に大掛かりな手術を受けた関係で断念。代わりにTigers Jawのベンが叩いてくれる事となった。ちなみにもう1人の候補はThe Menzingersのジョー。彼が叩いたらまた別のテイストになっただろう。

そこから渡米までの数ヶ月、僕は全てが上の空で、アメリカのことしか考えられない状態に陥っていたと思う。心を落ち着かせようとStudio4のYouTubeを見てみるものの、5分と見ていられない。すぐギターを弾いたりソワソワしていたと思う。それくらい僕の人生にとっては一大事だった。もう遠足前夜の子供とかそう言うレベルじゃなく、ただの危ないオッサンだったと思う。見守ってくれた妻に感謝。

かくして、2018年から幕を開けた”Otherside”のプロローグはついに渡米の日を迎え、本編へと突入するのであった。

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